2026 年沖縄慰霊の日 平和メッセージ

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沖縄からの叫び「NO MORE WAR!」

今ここに集った私たちは、81年前のこの日この場に何を思うでしょうか。どこで息絶えたのかも知れぬ家族・親族・友人の在りし日の姿でしょうか。それとも、激しい鉄の暴風にさらされ、焦土と化した痛々しい沖縄の姿でしょうか。あるいは、累々と築かれた遺体の山、空恐ろしいほどの残酷な風景でしょうか。こうした生々しい心の傷を抱えた人は、今はもう少なくなりました。しかし、信じがたいほどの無念を抱いて果てた20万余の死者と戦禍をくぐり生き残った者は、同じ戦場にさまよい、同じ不条理と屈辱を味わい、共に生死の境をさまよい歩きました。その事実とトラウマは、生死にかかわらず決して消え去ることはありません。いま、目を閉じて、その重く深い傷跡に心を向けましょう。そして、その恐怖と苦痛に思いを馳せ、それを少しでも分かち合いたいと思います。いま涙のうちに祈ります。彼らの苦難をともに担う主イエスの十字架の死と復活によって、永遠の安息のうちに憩わせてくださいと。それから、彼らと共に私たちも叫びます。「二度とこの戦争の苦渋を誰にも味わわせてはならない!」と。

戦争は悪

しかし、現在の世界の状況は、最悪の戦乱の危機に立たされています。ガザやウクライナでの戦闘、イランとその周辺の中東各地でのミサイル攻撃などで、何の罪もない多くの人間が殺され続けています。世界中が防衛や主権保護という欺瞞に満ちた理由を掲げ、競うように軍備と軍拡に囚われています。何も生み出すことない兵器、ただ殺戮と破壊のみを目的として造られる武器、戦争に勝つためのみに訓練され、人間性を奪われ消費される兵士たち。
こうしたことは、誰が考えても良くないこと、避けるべきことだと分かっているのに誰もこの戦争を止めることができずにいます。しかし、大義名分をつくり、これ以外に道はないかのように装い、防御防衛を声高に叫んでも、戦争を正当化することはできません。死刑をさえ廃止する世界的潮流の中で、どのような人殺しも認められる訳はないのです。正義の戦争などありえず、戦争はどのような形であれ悪です。

平和の途

一切の戦争を無くすためには報復の連鎖を食い止めなければなりません。憎しみの連鎖を断ち切らなければなりません。国土や権益拡大のための侵攻や越境、占領・収奪はもってのほかですが、それに対抗する報復や憎悪の戦いもまた、死と破滅をもたらすばかりです。憎しみからは憎しみしか生れません。報復は更なる報復しか招きません。その犠牲となるのは、常に弱く小さな者、戦争に加担しない人々です。
沖縄は、鉄の暴風、ありとあらゆる地獄を詰め込んだと言われる戦場の体験を経てもなお、誰をも恨みません。敵をさえ憎みません。若い敵の兵士の不遇をさえ、わが子のことのように思いやりました。沖縄では、争いをもっとも忌み嫌います。戦いを徹底的に避けます。戦争を退けます。非暴力の道を歩み、たとえ自らが傷つこうとも平和の途を選び取ります。

絶対平和希求の精神

想像しましょう。このような理想を実現するために最も重要な事柄を。それは、取引でも、駆け引きでも、外交でも、条約でもありません。「一切の交戦、武装を恒久的に放棄する」ための最も奥深い核心となるのは、”悲痛”です。戦争によってもたらされた”深い深い傷”です。
海深くひっそりとたたずむ貝は、痛みをもたらす石などの苦痛の種が体内に入ると、もがき苦しみつつも、取り除くことのできないこの痛みの源を何度も何度も撫でて包み込み、やがて光り輝く真珠へと変えるそうです。この真珠貝のように健気で、誠実真摯なウチナーンチュが生み出した非戦・非暴力の精神は、まさに真珠のようです。
戦争の傷跡を恨み辛みや復讐の根拠とすることなく、それでいてその傷を拒み、消し去ろうともせず、この”悲痛”を自らのうちに反芻し、涙しながらこの苦しみを二度と、誰にも及ぼしてはならないと自らのうちに包み込み、その魂を美しい真珠のように輝かせてきました。 この沖縄の”絶対平和希求の精神”は、まさに世界の宝、代えがたい秘宝です。
この珠玉の精神を大切にし、尊重し、それに学ぶなら、実現不可能と思われる真の世界平和が訪れるでしょう。なぜなら、そのような生き様こそ私たちの主キリストの平和の途へと連なる生き方だからです。
「世界よ、絶対平和希求の精神に学べ NO MORE WAR!」

          カトリック那覇教区
ウェイン フランシス バーント司教
(2026年6月23日魂魄の塔にて)

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